『ディケノヴェス』レヴュー
映像アーティスト・カイシンタンによるディケノヴェス プロモーション映像
舞踊でも演劇でもなく、パフォーマンスとしか呼びようがない「ディケノヴェス」と題された催しがあった(6日、東京・パナソニックセンター有明スタジオ)。この種の催しは空間そのものが公演の重要な要素。その点、近未来的な都市空間に位置する大きな無機質のスタジオは、既成の色に染まらず、賢明な選択だ。前半はドラマー一楽儀光によるパフォーマンスがある。プログラマー伊藤隆之によって映像とドラムセットがコンピューターにより連動され、ドラムを叩くたびに巨大な映像が前後に揺れる。激しいドラムの乱打のなか、映像は娯楽映画やポルノの1シーン、日本・北朝鮮・アメリカ政府の要人のニュース画像の1コマ、すさまじい戦争の 爆撃シーンなどが目まぐるしくぷれるように映し出される。メディアアートにありがちな知的な路線ではない。計算された無秩序が魅力だ。前半が身近な娯楽から政治や戦争に至まで、個人の外側に網の目のように広がる制度に放たれていたとすると、休憩をはさんでの後半の「ディケノヴェス」は徹底して1つの身体の内側にこだわる。ドラマー進揚一郎のすさまじい連打。伊東篤宏は蛍光灯の放電ノイズを増幅し、観客の視聴覚を暴力的に攻撃する。これらをバックに川口隆夫の体が屈曲し回転する。ダンサーとして優れた川口たが、ここでは踊りの所作は皆無。三半規管とバランス感覚、目眩と視覚の錯乱などが川口の経験を交えて語られ、体を酷使するように表現される。川口のしゃべりが多少パフォーマンスの強度を弱める。また、この空間に舞台と観客席をしつらえる必要があったかも疑問だ。しかしアナログとデジタルを拮抗させ、身体の外側と内側を穿つミクストメディアの行為がこれほど刺激的であったのは久々である。
(朝日新聞 夕刊2005年3月12日 土曜日)
川口隆夫のソロ・パフォーマンスによる、「ディケノヴェス」と題された公演は、異種格闘技戦のミスマッチを装いながら、それを単なる一期一会の手合わせに終わらせないような、的確なディレクションによって、豊かな成果を見せてくれた。全体は2 部構成で、前半部は2001年に初演された「夜色」、後半部は今回が初演であり公演全体のタイトルにもなった「ディケノヴェス」である。
「夜色」は、ムーブメントの継起性が強い。高速で明滅する照明や、ダンサーの動きをリアルタイムに映しつつも時折ストップモーションによってフリーズさせる映像といった要素が、持続する時間に切断をもたらす。しかしこれらの分節は、一つの所作から連鎖的に移行し続ける川口の動作の継起的な流れをむしろ強化し、連続性に与えられた裂け目に注意を向けさせることで、裂け目の中に失われたムーヴメントを観者の想像力が補填することに寄与するよう、差し向けられている。川口のダンスそのものは、随所にズレを伴いながらも、多くの語彙を変奏していくことによって構築されており、観者はその豊かなムーヴメントをたどる喜びを享受する。その意味では、「夜色」は優れて古典的な「ダンス」であったといえるかもしれない。
一方、全く対照的な「ディケノヴェス」(「見えないと言え」の意)は、爆音によって暴力的に開始される。この作品は、蛍光灯を用いた<オプトロン>で知られる伊東篤宏と、川口との共同作業の側面が強い。オプトロンによる美術担当としての伊東は、同時に音響装置でもあるそれを用いて、音楽面でも重要な貢献をしている。ここでは、ユニークな即興演奏家としても優れた進揚一郎のドラム、そして伊東のオプトロンのみをメンバーとして結成されたハードコア・バンド<オプトラム>の生演奏が舞台音楽を担当した。
始めのシークェンスでは、舞台上に設置された激しく発光する一台のオプトロンの横で、シルバーのウィッグに白いブリーフ・パンツ一丁といった奇妙な出で立ちの川口が、おぼつかない足つきでよろよろと回転し続けている。その背後では、ハードコア・スタイルで演奏される爆音が鳴り続けている。このシークェンスは、前触れもなく中断され、次に、舞台上でメイクを落とし、今度はまともにズボンを履き、マイクスタンドを前にして、回転によって目が廻ることについての講釈を始め出す。事態の急変に呆気にとられるが、次第に様々な回転運動のヴァリエーションを示しつつも、最後には支柱の回転する椅子に腹這いになり、そのままの姿勢で高速回転をし、再び爆音と光のフリッカーの中クライマックスを迎える。以上が「ディケノヴェス」の大まかな流れである。
ところで、ハードコア・ロックの本質の一つは、一本調子の抑揚の無さである。音の強弱やビートの伸縮は、推移する時間内でのグルーヴ感を引き起こすが、最速最大の爆音で繰り出される音響は、むしろ時間が止まっているような感覚を与える。同様に、無意味に繰り返される回転は、時間内でのムーヴメントというよりも、舞台上で「単に回っている」という空間的な付置に還元される。また先の講釈の間に、舞台上の対角線をなすように二台のオプトロンが置かれ、さらに姿見の鏡が設置されるが、それらの光と鏡面の反射は、舞台上に歪んだ奥行きを示唆し、空間的付置をより複雑にする。つまり、この作品は、「夜色」とは対称的に、時間芸術であるダンスが、空間のフェイズに変換されてもなお、ダンスとして成立しうるか否かというスリリングな問いなのである。
「ディケノヴェス」の最後は、一瞬の暗転の後の、明るくなった舞台上から、直前までそこで回転していた川口が姿を消すというシーンで終了する。これはひょっとすると、無時間的な空間の中で、回転するオブジェとして存在するということに、時間芸術を司る「ダンサー」が、耐えきれずに脱出したことを示すかもしれない。しかしそのような判断は、タイトルが示す「見えないと言え」という命令によって、あらかじめ禁止されているのである。この2つの公演を見終わった観客は、意味を決定し難い幸福な宙づり状態のまま、その晩に目の当たりにした40分に満たない奇妙な光景を、繰り返し反芻するのである。
2003.12美術手帖初出誌